f/q 交換日記(2025/07/31・瀬戸マサキ)

このたび批評家の水上文さん、アーティストの近藤銀河さん、そして文筆家の小沼理さんとの四人で交換日記を始めました。タイトルは『f/q 交換日記』。読み方は自由ですが、私は「きゅうぶんのえふ」と呼んでいます。今回は第四回で、初の私の番です。すでに他の三名による第一回〜第三回がアップされていますので、そちらもリンクからぜひご覧になってください。
瀬戸マサキ 2025.08.01
誰でも

(全17ページ 下に進むとテキスト版があります)

テキスト版

 ネットを開くと苦しくなるような話ばかり目に入るけれど、できるだけ日々の小さな幸せを見逃さないように、取りこぼさないように生きています。瀬戸マサキです。

 この日記は、何らかのクィア性を生きている四名の書き手が各自のニュースレターを横断しながら書き進めていく交換日記企画です。

 文筆家の小沼《おぬま》|理《おさむ》さん、アーティストの近藤|銀河《ぎんが》さん、批評家の水上《みずかみ》|文《あや》さん、そして私瀬戸というメンバーでお送りします。

 すでに水上さん、小沼さん、近藤さんが一回ずつ書いてくれており、私のこの日記でちょうどワンラウンド、というところです。まだの方はぜひ他の三名の日記も読んでみてくださいね。また、次のラウンドが始まりますので、よかったら全員のニュースレターを購読していただけたら嬉しいです。

 さて、日記です。

 実は私、日記というものが一番苦手なのです。読むのは好きなんですが、書くのがどうしてもうまくいかない。何か主張というか、結論めいたことを書かないといけないような気がしてしまうのです。これには、私が書く訓練を最初に受けたのが英語圏の高校だったことも関係しているかもしれません。だから無理やりまとめようとして、私の日記はいつも変な文章になってしまうのです。自分で読み返しても「そんな教訓でまとめんなよ」とか思ってしまうのです。もっといろいろあっただろうがよ、と。そんな「もっといろいろ」も含めて全て書いちゃえるのが日記の良さというか凄さなのだとは思うのですが、それができるようになるには私はきっと何かひとつタガを外さないといけないのだろうな、と思っています。

 今回の交換日記企画がそのきっかけになったらいいな、という願いとともに、書き進めてまいります。

 最近は本当にいろいろな出来事があったのでどれから話したらいいか迷うのだけれど、まずはこれかな、と思うのが、パーソナルトレーニングを受け始めたよ、ということです。

 週に二回ジムに行って専属のトレーナーさんに筋トレの指導をしてもらったり、栄養バランスの指導をしてもらったりしています。まさに今もおとといの筋肉痛で足の付け根がヤバいです……。でも、すでに持ち上げられる重量が増えたり、半月で体重が3キロくらい減ったりしてるので、結構モチベーションが上がってます。

 なんか今まで私、自己肯定感の高さもあってか、自分は自分のままでいいじゃんっていうのが強かったんです。今の自分に基本的に満足しているから「もっとこうなりたい」が全然なくて、たとえば十代の頃に英語圏で生活し始めた時も「もっと英語が話せるようになりたい」というよりは「今日も何とか英語で生活できた、自分すごい!」みたいな感じだったし、日本の学校で受験勉強してた時も「社会科は大っ嫌いなのにこの点数取れててすごいし、数学は得意だからこのくらい取れててほんとすごい」みたいな感じだったのです。

 でもここ数年、パートナーの影響で少し「もうちょっとだけこうなってもいいかも」っていう上昇志向的な感覚が芽生えてきました。たとえば「誰かがピンチの時にお金を貸せる人になりたいな」と思って貯金を始めたり、「せっかく自炊なんだから栄養バランスを考える人になってもいいな」と思って野菜やキノコ、鶏肉とかを積極的に選ぶようになりました。

 こういういろんな変化のひとつとして、パーソナルトレーニングも始めたって感じです。今のところ一番の目標は「好きなファッションのジャンルを見つけること」です。多くの服が限定的なサイズ展開しかしていないので、肥満体型の私はあまりファッションを楽しめていないのです。どんなファッションがしたいのかも分からない。だから体を少し変化させて、楽しめるファッションの幅を広げてみたい、という感じです。Super-KIKI さんの作るフェミニストやクィアな服とか着てみたいしね。

 なんか、こういう自分の心境の変化を振り返って思うのは、どうしてもクィアやフェミニズムの界隈にいると(それ以外でも反差別の場は似たようなものかもしれない)あなたはあなたのままでいいんだよ的なメッセージを浴びまくってしまうよな、ということ。それは「お前は間違ってるから治せ」と言ってくる社会への抵抗でもあるし、そう言われてきた自分たちへの癒しでもあるのだけれど、でもクィアなフェミニズムの中でも「もうちょっとこうなりたい、なってもいいかも」の背中を押すような文化が広まったらいいなあって、ちょっと思ってます。

 たとえば私の好きな米国のトランス男性ユーチューバーは、トランス男性向けのフィットネス系のキャンプイベントみたいなのをやってます。その人はとても政治的な人で、クィアに限らずさまざまな問題について発信している人ですから、もちろん「フィットネス(fitness = 運動習慣を通して健康状態を保つこと)」という概念自体にさまざまな不正義や理不尽な不均衡が内包されていることも理解しているはずです。それでも彼は、トランス男性やトランスマスキュリンな人々にとって自分の体を運動によって自分の望むように変化させることがどれだけの喜びをもたらすかを知っているから、こうしたイベントをやっているのでしょう。

 もちろんこれはひとつの例なので、ほかにもいろんなジャンルの「こうなりたい、こうなってもいいかな」の後押しをする文化が増えてほしいなと思っています。そこでちゃんと能力主義とか健常者中心主義が批判的にとらえられていて、「そうならなくてもいい」が当たり前な前提として存在するような、そういうクィア・フェミな空間なら、どんどん増えてほしいな、と。私自身も最近プログレス・トライブという語学系コミュニティを立ち上げたんだけど、「英語が話せるようになりたいクィアな人々」にとってそういう場にしていけたらいいな、と思ってます。

 最近はパーソナルトレーニングの他にも、隣駅の音楽系バーの人たちと仲良くなってピアノで即興セッションに入ったり、パートナーと日本科学未来館というところに行って「光と電波の違いは周波数だけであり、どちらも電磁波である」(つまり電磁波の一部の周波数帯だけが人間の目には光って見えているだけ)ということを知ったり、二丁目で友達が働いてる韓国系ゲイバーに行ったり、友達が主催してるノイジーラウンジというクィア・フェミ系イベントに行ったりと、いろいろと充実した日々を送っています。

 ちなみに隣駅のバーの人たちには初日に「なんで群馬からこっちに引っ越してきたの?」と聞かれたので「東京勤務の彼氏と同棲することになって、ちょうどいい場所がこの辺だったんですよー」とカミングアウト済み。それから七回くらい言ってるけど、特別話題にされることもなく、でも自然に「彼氏も音楽やってるのー?」みたいな形で言及してくる、という、とても居心地の良い場です。

 昔「名もなき社会運動」という話を書いたんだけど、それはつまり、活動家や思想家が公共の場でやっている活動とか言論活動とかだけではなく、社会は無数の一般人の日常生活における抵抗が積み重なって変化をもたらしてきたよね、という話でした。

社会運動の「現場」とは、職場の給湯室であり、中学の同窓会であり、正月の親戚の家であり、週一で通うスポーツジムであり、近所のワークマンである。そんな気持ちで社会運動に携わっていきたいね。(2020年)

 他にも、Xを見たらこんなことも書いてた。

東京来れなくても、地元のパレードも行けなくても、普段その辺うろついてるだけでそれがうちらのプライドパレードだからな!(2025年)

 近藤さんが「毎月がプライドマンス」的なことを書いてたけど、私も結構その気概で生きているなあと思いました。近藤さんが言う通り、それができる諸条件が私には揃っているということでもあるけれど。

 ちなみにこんなのも見つかりました。

行かないよ、東京レインボープライド。私は大切な人たちとバーベキューをするのだ。(冊子から特定のプラカードだけ排除するような、あるいは過去に男女別トイレしか用意しなかったような)イベントより、私や私の家族や店のことを好いてくれている人たちと過ごすほうが私にはよっぽどパレードだもの。(2017年)

 まさに小沼さんが話してた「パレードというものへの不信感、失望感」ですね。今年の東京プライドが小沼さんの言う通り人権を重視したものになったというのは私にとっても本当に喜ばしいことだけれど、この2017年の私の書いたことの他にも、イスラエル支援企業どころかイスラエル大使館のブースがあったこともあるし、企業ブースに抗議した参加者に対し「警察を呼ぶ」という対応をしたこともありました(2022年)。

 私はこの警察を呼ぶという行為を「対応がよくなかった」レベルではないと思っていて、たとえば抗議者が滞在権を持たない人だったらどうなるのか、公安に目をつけられてる活動家だったらどうなるのか、常に警察から取り締まり対象として扱われてきた民族マイノリティだったらどうなるのか。そういうことを考えたら、よほど身の危険を感じる状況で、かつ他の危険回避方法が存在しない場合(周囲に他のスタッフが誰もおらず、呼ぶこともできないなど)においてしか、警察を呼ぶことは正当化できないのではないか、と。

 パレードと言えば、水上さんがトロントのトランスマーチを「ものすごく政治的なプロテストとしてのプライド」と言っていました。日本に住むクィアな人々には、どうして日本のプライドもそうならないんだろうと不思議に思っている人もいるでしょう。でも実際トロントだって、トランスマーチじゃなくてトロント・プライドの方は、やはりいろいろと問題を抱えています。

 私の記憶にまだ新しいのは、2016年にブラック・ライヴス・マター・トロント(以下、BLM-TO)のメンバーがトロント・プライドを三十分間止めたのがニュースになったことです。

 これを読んでいる知らない人のためにざっくりと説明します。

 BLM-TOのメンバーは、トロント・プライドで座り込みをし、行進を止め、「これまで黒人のクィア/トランスコミュニティやその他の周縁化されたコミュニティにトロント・プライドが敬意を全く払ってこなかったこと、そして近年プライドにおける黒人のスペースの存在を脅かす試みをしてきたこと」を責め、「今後スタッフの多様性を向上すること、特に黒人トランス女性や先住民の雇用を優先すること、警察によるフロートの受け入れをやめること」などの条件を提示し、トロント・プライドの事務局長マテュー・シャンテルワが合意の署名をするまでその場を動かなかったのです。

 あれ? トロントだってこんなもんだよ、という話のつもりだったのですが、書いてるうちに「こんなことが起こりうるというだけ、日本よりマシかも」と思えてきました……。

 今回東京プライドの運営側が方向転換をしたこと自体は重要な方向転換なんだけれど、小沼さんも「変化の兆し」と書いてた通り、まだまだそれはほんの第一歩目です。これまで散々抗議の声を挙げてきた人たちへの感謝の意を示すこともせず、功労者としてその人たちの名を挙げることもせず、これまでの東京プライドの対応を批判することもせず、ただ方向転換をしただけでは、何も蓄積がない。蓄積がなければ、運営者が変わればまた方向転換されてしまうかもしれない。そうならないためには、私たちがなあなあに新体制を受け入れてはいけないような気もしています。

 みんなの日記を読んで、私ももう少し東京プライドにコミットしたほうがいいのかもしれないなあ、と思い始めました。もちろん自宅にいたってそれが自分のプライドマーチだぁというパッションはいまだに大事だと思っていますが、東京に近いところに住んでいて、移動が困難ではない身体状況で、もっとこうしろああしろと要求を言語化できるスキルがあって、場合によっては聞く耳を持ってもらえるかもしれないくらいには知名度がある私は、それらの特権をもっと利用すべきなんじゃないか、と。なんなら、BLM-TOのように座り込みをすべきなんじゃないか。座り込んで警察を呼ばれたって、私は比較的困らない立場にあるんだから。

 なんだか少し不穏な雰囲気を出して終わりになってしまいそうなので、少し明るい話題を最後にして終わりにします。

 一眼カメラを売却して、小型で身につけられるカメラを買いました。これまでとは画質は雲泥の差だけれど、数分に一回、十五秒だけ自動で撮影してくれるという機能がお気に入りです。遊びに行く時とかに付けて家を出て、家に帰ってパソコンにつなぐと、その日一日のダイジェストみたいな感じで短い動画が並んでいます。自分の手が完全に被っててボツ、みたいなショットもあるんだけど、そういうのを除いて一本の動画にしたらいい感じのVLOGって感じにもなりそう。

 世界がね、クソだから。せめて日々の小さな幸せをね、見逃さないように、取りこぼさないように、生きていきたいです。

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