聴者の私が手話を学び始めて知ったこと

「手話は言語である」とは、実際どんなことを意味するのだろうか。日本手話の独自の文法にはどんなものがあるのか。ろう者にとって日本語(日本語対応手話、書記日本語=書かれた日本語)とは。言語マイノリティあるいは少数民族としてろうコミュニティを捉え直すことで見えてくるものとは。
瀬戸マサキ 2024.06.23
誰でも

 手話を勉強している。

 そう言うとなぜか「偉いね」などと言われることがあるが、当の私はちっとも偉くなどなくて、単に言語習得のプロセスを楽しんでいるだけだ。

 言語の習得は面白い。私は十七歳で英語圏に移り、しばらくの間英語での生活を送ったが、最初の一年こそ苦労したものの、二年目からはどんどん英語の運用能力が上がった。その過程で、何度「なるほど! 英語ではこういう発想をするんだね!」と驚いたことか。後に大学で「言語が現実を構成、構築する」という考え方——社会構築主義とか、象徴界とか、そういう話——に触れた時に一切の違和感も感じなかったのは、実体験として、日本語で話す時と英語で話す時では、自分の考え方や物事の捉え方、注目する観点などが変化する、ということを知っていたからだと思う。

 端的に言えば、その体験は、自らの拠って立ってきた枠組み——あるいは「常識」と言い換えてもいいかもしれない——が瓦解するというものだった。他言語を学ぶことには様々な意味が、そして意義があるが、もし私がひとつだけ「なぜ他言語を学ぶと良いのか」と問われれば、きっと「自分の常識に疑いの眼差しを向けることができるようになるからだ」と答えるだろう。ただし、その領域に達するには相当なレベルで他言語を運用できるようにならねばならないけれども。

 手話も同じである。なぜなら、手話もまた他言語だからだ。

 世の中には、手話をジェスチャーだと思っている人がいる。あるいは単語を並べるだけの簡易なコミュニケーション方法だから、深い話や専門的、学術的な内容は取り扱えない、と決めつける人もいる。日本語の言葉を日本語と同じ語順で手や指で表しているだけだ、と勘違いしている人も多い。また、どの国のどの地域に行っても手話は通じると思っている人もいる。もちろん、これらは全て誤りである。

 この文章では、聴者である私が第二言語(順番で言ったら第三言語だが、言語習得に関する学問では第一言語以外の言語は全て第二言語と呼ぶらしい)として日本手話を学ぶ過程で得た、手話に関する知識をシェアしたい。既に多数のろう者が語ってきたことではあるが、私の文章を読んでいる人たちの中には手話がどんなものかよく知らない人も少なくないだろうと思い、ここに記しておく。自分のための知識の整理、という意味も兼ねている。

手話に関する誤解

 まず、国や地域によって手話は異なっている。日本語や英語のような音声言語が大元を辿れば人々の間でコミュニケーションを取るために自然発生したのと同様、手話もろう者同士のコミュニケーションの中で自然発生した。よって、方言も多様である。だからといって、てんでバラバラな表現になっているというわけでもない。多くの表現は全国的に認知されているし、方言も、ある程度広い地域範囲ごとにまとまっている(これは、ろう学校の設置が影響したようだ)。そして何より、それらの表現が単なるジェスチャーでないのは、そこに確立された文法があるからである。

 実はかつて私は「手話って単語を並べているだけだから〜」という言葉を生で聞いたことがある。同じ手話奉仕員養成講座に通っていた人が、控えめな声で休み時間に私に囁いたのだ。私はその時まだ日本手話の文法の勉強を始めたばかりだったので、うまく言い返すことができなかった。今は自信を持って言えるが、日本手話には確立した文法が存在する。

日本手話の文法

 まず、語順が決まっている。基本的には主語、目的語、動詞の順番で表現する。末尾にもう一度主語を繰り返す、という文法もある。さらに「良い」「不満」「決定」などの表現を末尾に付けることで、その文で表現した内容について自分がどう感じているかや、どのくらいの確信があるのかなどを表すことができる。これを文法用語で文末コメントと呼ぶ。

 そして、単語表現をどのくらい大きく表すか、どのくらいゆっくり、あるいは速く表すか、なども、その単語の意味の度合いや頻度、勢いなどを変更する文法要素になっている。

 次に、指差しと手の位置に明確な意味がある。例えば自分の右前で「弟」という表現をしたら、その後は右前を指差すだけで「弟が」「弟を」「弟は」という表現が可能になる(位置関係が複雑な場合は改めて「弟」と表現することもある)。他にも、「会う」という表現を左右で表現すると——これは辞書的な表現である——概念としての「邂逅(かいこう)」、つまり一般的な「会う」という行為を指すが、「あなたと私が会う」と表現する場合は、片手は自分側から、もう片手は相手側から近づける必要がある。

 位置が重要になる手話の文法は他にもある。RS(ロール・シフトあるいはレファレンシャル・シフト)と呼ばれる文法は、視線の方向や肩の向きを変えることによって、現在の自分以外の発言や行動を表現するために使われる。例えば「私が母に〇〇と聞いたら、母が××と答えた」のような表現において、この「××」の部分を表現する時に視線や肩の向きを変えるのだ。具体的には、まず前半で右前に母親を置き、「聞く」という表現をその位置に向かって表現しておく。そして後半ではその位置を指差すことで母を主語にし、視線を左に、そして両肩を左に少し回して「××」を表現し、最後にまた母の位置を指差す。視線と肩の向きを変えることによって、「これは現在の自分の発言や気持ちや行動等ではありませんよ」ということを表しているのだ。

 最後に、おそらく最も頻繁に使われる文法であるにもかかわらず、最も聴者の理解が乏しい文法がある。それは、NMやNMM(ノン・マニュアル・マーカーズ=非手指標識)と呼ばれるもので、眉の動き、瞬き、視線、口の動き、頭の動きなどを指す。多くの聴者が手話通訳を見た時に「感情表現が豊か」「表情が豊か」と勘違いするのは、このNMを感情によるものだと誤解しているからだろう。もちろんろう者であっても感情によって表情が変わることはあるが、NMは文法である。基礎的なものに、眉上げがある。眉を上げることには「話題化」という文法的機能があり、これは「今表現したものが主語ですよ」という標(しるし)になっている。次に、頷きは並列を表すことがある。「私の姉」と表す時は「私→姉」とひと続きに表現するが、「私と姉」と言いたい時は「私(頷き)→姉(頷き)」と表現する。他にも、首を振る、あごを前に出す、目を見開くなど、様々なNMが存在する。

 例えば、このようなことを言いたいとする。

「タカシという男の子が私の姉のことを好きなのは見てて分かったから、前に姉もタカシが好きなのか聞いたんだけど、姉はタカシのこと大っ嫌いなんだって。つまんねえな〜」

 これを日本手話で表すと、次のようになると思う。(ただし、私は勉強中の身なので、これを正解だとは思わないで欲しい。また、動作をひとつひとつ文字化しているのでかなり長く感じるだろうが、実際は日本語の例文を声に出すのと変わらない速度で表現することができることにも留意されたい。)

 /(左前で)男(そのまま「男」をもう片方の手で指差す)/ /名前/ /(指文字)タカシ/ /(左前を指差して、眉上げ)/ /私/ /(右前で)姉/ /好き/ /(左前を指差す)/ 【間】 /私(眉上げ)/ /(左前の方向に)見る/ /(頷きながら)分かる/ /私/ 【間】 /だから/ /前/ /私(眉上げ)/ /姉/ /(右前の方向に)尋ねる/ /私/ /何(あご出し&目見開き)/ /(右前を見て指差す&眉上げ)/ /(左前を指差す)/ /好き(右前を見たままあご出し)/ /(正面を向き直してゆっくり頷く)/ /(右前を指差す&眉上げ)/ /(左に両肩を回し、左前を見て)私/ /(正面を指差す)/ /(口を開け口角を下げ、勢いよく)嫌い/ /(目線は正面に戻すが、左前の方向に)言う/ /(肩も正面を向き直し、右前を指差す)/ 【間】 /(口を窄め、勢いよく)つまらない/ /(口で「ピ」の動きをしながら)不満/

 以上の表現からNMや位置、文末コメント、RSを除くと、このようになる。

「男、名前、タカシ、私、姉、好き。私、見る、分かる、私。だから、前、私、姉、尋ねる、私、何。好き。私、嫌い、言う。つまらない」

 もし私の手話奉仕員養成講座のかつての仲間が言ったように手話が単語の羅列でしかないのであれば、これが手話で表現される全てである。しかしこれでは、そもそもタカシが姉を好きなのか、姉がタカシを好きなのかすら分からない。途中で姉にロールシフトしていることも分からないし、指差しも無いので、誰が誰のことを「嫌い」と言ったのかも分からない。

 実際、私を含め日本手話の学習者はNMや位置、文末コメント、RSを適切に使用することができず、ろう者にとって理解しがたい表現をしてしまうことがある。YouTube や TikTok など動画系のSNSで「手話歌」を披露する聴者も多いが、かれらの表現もこの単語の羅列に近く、多くのろう者が「手話歌は何言っているか分からない」と感じている(さらに言えば、ろう者の言語を利用して聴者同士が楽しんでいる様子を見て、マイノリティに対する愚弄、あるいは文化盗用 cultural appropriation であると感じる人も少なくない)。

 日本手話は単語の羅列では決してない。ろう者同士がみんな、そんな曖昧な言語でコミュニケーションを取っているわけないではないか。

日本手話だけじゃない「日本の手話」

 以上が、私が「日本手話について」学んだことである(繰り返すが、必ずしも正解とは思わないでほしい)。ここで急いで付け加えなければならないのは、日本で使われている手話には日本手話のほかに日本語対応手話(手指日本語)、そして中間手話と呼ばれるものがある、ということだ。

 日本手話は主に「ろう」というアイデンティティを持った人々によって使われる手話であり、ろう者の第一言語であることが多い。幼い頃から日本手話を習得した場合はもちろんだが、聴覚障害者には、家庭や学校、地域で口話(こうわ=相手の口型を目で読み取り、自分も音声で発話すること)を強制されたり、推奨されたりして育つ人も少なくなく、成長するに従ってろう学校や大学で日本手話に出会い、日本手話を習得する人もいる。そうして習得した場合でも、日本手話が自分にとっての(順番は一番目ではないにせよ)第一言語である、と認識している人は多い。

 一方で中途失聴の場合、年齢にもよるが日本語を最初にまずある程度習得しているケースが多い。既に日本語の語順や文法をある程度把握しているので、先ほど紹介したような独特の文法を持つ日本手話の習得が難しい場合もある。そうした人々の多くが習得するのが、日本語対応手話(手指日本語)である。日本語対応手話は、日本語の文法・語順のまま、音声ではなく手指の動きで単語を表現する。ローマ字で日本語を書いても日本語には変わらないのと同様、日本語対応手話は日本語である。極端な場合、「〇〇が」「〇〇も」「〇〇は」「〇〇に」などの助詞すら指文字で表現する人もいる。手話サークルなどでろうのメンバーや講師がいない、あるいは軽視されている場合には、そこで学ぶ聴者が日本語対応手話を学習することもある。

 中間手話は、日本手話と日本語対応手話が混じった手話を意味する。音声言語でも生育環境や個別の人間関係の状況などによって各人が個性的な話し方をするのと同じように(例えば留学生を多く受け入れている学校では、日本生まれ日本育ちの学生が「宿題」をアサインメント、「締切」をデッドラインなどと呼ぶようになってもおかしくないだろう)、聴覚障害者たちもまた、生育環境や個別の人間関係の状況などによって、手話の使い方にバリエーションが多く存在する。生まれつき聴覚障害があり「ろう」というアイデンティティを持っていても、親が中途失聴者や聴者だったり、高校でできた親友が中途失聴者であったり、あるいはろう学校の教員が日本語対応手話でしか指導できなかったりすれば、ベースが日本手話であっても、ところどころ日本語対応手話が混じる話し方をするようになったりする。逆に中途失聴で日本語対応手話を習得した人でも、ろうの知り合いや友人、恋人などの影響で日本手話の文法を自然に取り入れるようになることがある。中には大人になって初めて「ろう」というアイデンティティを確立し、日本手話の習得を目指す聴覚障害者もいる。

 つまり、ひとくちに手話と言っても、国や地域によって異なる言語であるし、方言もある上に、人それぞれ様々なバリエーションが存在するということだ。そしてその全てのあり方が尊重されるべきだし、どんな手話を用いていたとしても、それがその人の大事な言語であることを認識すべきである。

ろう者にとっての日本語とは

 しかし一方で、聴者中心主義的かつ日本語中心主義的である日本社会において、日本手話はあまりにも軽視され過ぎている。先ほどろう学校の教員が日本語対応手話でしか指導できない場合について言及したが、実は近年この問題が大きな話題となっている。詳しくは「札幌 手話 裁判」で検索してもらいたいが、札幌のろう学校に通う児童二人が、それまでは日本手話のできる教員の指導を受けていたのに、教員が変わって日本語対応手話のみの指導となったため、授業についていけなくなってしまったのだ。二人は、教育を受ける機会を奪われたとして、札幌市を提訴した。今年になって裁判所が判決を下したが、内容は二人の請求を棄却するというものだった。この裁判が始まって以来、児童らに関して、あるいは聴覚障害者全員について、そして日本手話という言語について、多くの心ない言葉がインターネット上に飛び交っている。

 日本手話、日本語対応手話、中間手話。人それぞれの様々なバリエーションがある。聴覚障害者同士は時々その違いに「分かりにくいな」とは思いながらも、お互いにコミュニケーションを取ることが基本的には可能である。しかしこれまでずっと日本手話で育ってきたろう児が、初めて学ぶ算数の計算方法や、聞いたこともない物質の性質などを、日本語対応手話で学ぶことは容易だろうか。大人になっても、例えば大学で学ぶような専門的な話になったら、ろう学生がそれを日本語対応手話できちんと理解することは容易だろうか。

 そもそも日本手話を第一言語とする人にとっては、日本語(日本語対応手話、口話、書かれた日本語=書記日本語)は第二言語である。それは、あたかも外国語のように学ばなければならないものである、ということだ。多くのろう児は、たとえ日本手話で育とうとも、日本語を学ぶ必要性に迫られている。本を読むにも、字幕付きで映画を見るにも、履歴書を書くにも、説明書を読むにも、あるいは日本語対応手話での通訳を受けるにも、とにかく多くの情報が日本語でしか提供されていない社会で生きていくために、第二言語として日本語の習得が必須なのだ。先ほど「中途失聴者にとっては独特の文法を持つ日本手話の習得が難しい場合もある」と言ったが、逆も然りなのである。

 実際、米国のろうの大学生と大学院生を対象にした調査によれば、同じ専門的な内容をアメリカ手話(日本でいう日本手話)と英語対応手話(日本でいう日本語対応手話)で説明されたとき、アメリカ手話の方が理解度が高いだけでなく、内容の専門性が上がれば上がるほど、アメリカ手話の場合と英語対応手話の場合の理解度に開きが出ることが分かっている(*1)。日本でも、大学院生は学部生に比べてRSやNMを使った手話通訳を高く評価することが分かっている(*2)。世に溢れる「手話は深い話や専門的、学術的な内容は取り扱えない」という偏見とは裏腹に、実際は全く逆の現象が起きているということだ。これは同時に、書記日本語や日本語対応手話での情報保障(通訳、字幕など)が完璧ではないことを示してもいる。高齢のろう者には特に、日本手話での情報保障が大切であると聞く。

*1 Murphy, H.J. & Fleischer, L.R. (1977). "The effects of Ameslan versus Siglish upon test scores. " _Journal of Rehabilitation of the Deaf_, 11, pp.15-18.
*2 吉川あゆみ・石野麻衣子・松崎丈・白澤麻弓・中野聡子・岡田孝和・太田晴康 (2011).「高等教育における手話通訳の活用に関する研究 ―学術的内容の高度化に対応するための手話通訳の技術的ニーズに着目して―」.『日本社会福祉学会第59回秋季大会』, pp.461-462

障害者と健常者の境目

 聴覚障害に限らず、障害による不便さは、社会のあり方(制度、設計、慣習など)によって生み出されている。例えば私たちの社会は、二〇センチくらいであれば足を上げられることができる人を想定して、社会を設計している。だから階段というものがあるのだ。もしこれが八〇センチだったらどうだろうか。たまたま多くの人が八〇センチくらいであれば足を上げられるのが普通であるという前提で設計された社会に私が生まれていたら、私は階段を登ることに大きな困難を感じただろう。スロープがあれば多少遠回りでもそちらを選ぶだろうし、エレベーターがあれば乗るに違いない。もしスロープもエレベーターも無ければ、上階に上がることを諦めるかもしれない。私の身体は今と何も変わっていないにもかかわらず、その社会に生まれただけで、私は障害者になる。

 これは思考実験ではない。実際、あなたが六〇階にあるサンシャイン・シティの展望台で眺めを楽しんだあと、さあ帰ろうと思ったらエレベーターが故障していたとしよう。大きな地震でエレベーターが停まった、という想定でも構わない。あなたは果たして、階段で一階まで降りようと思うだろうか。

 私たちの多くは、一段が八〇センチの高さの階段は登れない。二〇センチでも、六〇階から降りることはできない。だから社会は、私たちに「配慮」して、一段を二十センチくらいにしている。私たちに「配慮」して、高さ三一メートルを超える建物にエレベーターの設置を義務付けている。つまり「健常者」とは、社会が既にコストを払って「配慮」している層のことを指しているのだ。そして「障害者」とは、まだ社会に「配慮」されていない層のことを指す。

 さらにろうの社会運動においては、ろうであることは障害ではない、とまで主張する人たちが一定数存在してきた。日本語が聞き取れて理解できることを前提に社会が設計されているから、教育を受けたり社会生活を営む上でどうしても第二言語として書記日本語や音声日本語(口話など)の習得が必要ではあるが、それが意味するのは、ろう者が日本手話を第一言語とする言語マイノリティ、あるいは少数民族のようなものである、という考え方だ。

 実際デフファミリー(自分だけでなく親や祖父母などの家族も聴覚障害者——特にろう——であること)で育ったろう者は、家族の交友関係が地域のろうコミュニティ内で構築されている場合も多く、ある年齢まで、自分たちろう者をこの社会における「異質な存在」だとは思っておらず、逆に聴者のことを「異質な存在」だと感じていた、と語ることがある。これは、移民コミュニティの中で生まれ育った人が成長とともに民族マジョリティ(日本であれば日本人)と交流するようになる時の経験と似ている。

 ろう者を少数民族と解釈しうる理由はもう一つある。それは独自のろう文化の存在だ。例えばろうコミュニティでは、人を指差すことや肩を叩いて呼ぶことは失礼にあたらない。少し遠くにいる人の注意を引きたいときは、床を足でバンバンと叩くこともある。聴者の集まっている場で照明のスイッチを付けたり消したりしたらびっくりされるが、それも、ろうコミュニティでは「すみませーん」と周囲の注目を集める行為だ。

 逆に聴者同士では失礼にあたらないことが、ろうコミュニティでは失礼にあたることもある。例えば、何か頼みたいことがあるときに、要望を最初に伝えず、なぜ依頼することになったのかの背景から話し始める、といったことは、ろうコミュニティではあまり歓迎されない。関連して、「つまらないものですが」や「行きたいけどちょっと忙しいから…」というような婉曲的な表現も歓迎されない。それどころか、「なぜつまらないものを私に?」とか「忙しいけど行きたいなら来るかもな」と解釈される余地すら生んでしまう。これは、英語圏の文化に似ているかもしれない。他にも、例えば会話の最中に何かをスマホやパソコンで調べるとき、ろう者は「待ってね、調べてみる」などと言ってから調べることが多いが、聴者は何も言わずに調べ始めることが多い(もしかしたら「んー」などと言っているかもしれないが、ろう者にはその音は聞こえていない)。突然会話が止まって別のことをし始めたように見えてしまい、失礼な行為だと思われる可能性がある。

まとめ

 このように、ろうであることはただ単に聴覚障害があるということを意味するのではない。人によってはそれは大変重要なアイデンティティであり、家族や友人、コミュニティとの繋がりであり、物事を理解したり感じるときの枠組みであり、また自分自身のあり方そのものですらある。

 私はまだろう文化やろうコミュニティのこと、そして日本手話どころか日本語対応手話さえも、学び始めたばかりだ。だからこの文章にはたくさん足りないところがあるだろうし、ろうの当事者からしたら「重要なのはそこじゃないんだよな〜」と思うような箇所もあったと思う。だから、聴者の読者には、決して私がろう者を代弁しているかのようには解釈しないでもらいたい。中盤で解説した手話の文法も、勉強中の私が「なるほど」と思った点をかいつまんで書いたにすぎず、へたしたら微妙に間違えて覚えてしまっている部分もあるかもしれない。

 なので、この文章を読んで興味を持ってくれた人には、ぜひともろうの発信者たちのSNS投稿やウェブサイト、書籍などに触れて欲しいと思っている。私がここに書いたことなど比べ物にならないほど深い考察や正確な情報が、それぞれのろう者の多様な視点から既にたくさん語られている。日本手話での動画の発信にも、日本語の字幕をつけてくれているものもある。そういったろう者のおかげで、私たち聴者は手話を学ばなくても、ろう文化について、ろうコミュニティについて、手話という言語について、聴覚障害について、ろう児の教育について、情報保障について、ろうの社会運動の歴史や現状について、たくさんのことを学ぶことができる。

 最後に、私の友人であるろう者の言葉を引用して、この文章を終える。彼がある日、手話と口話を混ぜて私に言った言葉である。

マサキはゲイでしょ。俺はろう。聞こえないから、嫌なこと言う人すごくいっぱいいるよ。きっとあなたがゲイだから、嫌なこと言う人もいるでしょ? 俺は違うよ。マサキのこと分かってるよ。

おまけ:オススメの発信者たちをご紹介

Nozomi Tomita 富田 望 🛑 ストップ✋日本手話で学習する権利の侵害
@naninunenozomi
[拡散希望]⚠️注意⚠️「体罰」「ろう学校での一方的な口話教育だけ」を受けてきた人にとってはセンシティブな内容になっています。よろしくお願いします。

今日は「日本手話で学ぶ権利をめぐって 勝手にまとめてみました パート1」となっています。…
2024/01/13 00:55
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かえで【ゲイ手話講師・書家】
@kaedegaysign
【速報・同性婚札幌高裁判決】

手話動画にしました。

#札幌高裁0314 #w判決0314 #結婚の自由をすべての人に
2024/03/14 17:13
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Kazue Kawabuchi
@kazueDEAF
日本語対応手話と日本手話*テロップあり2倍速

日本語対応手話のテロップで(そしたらね)の( )かっこのところは手話にされていない部分です 結構手話にされてない部分があるんだよね(だから内容がわかりにくい

*手話表現には地域差があります

#手話あつめ
#手話
#手話動画
#ろう者
#ろう文化
2024/06/11 08:49
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