ミニスカートの舞台裏

女は、若さにこそ価値がある——そういう社会の中で、女性はトランスもシスジェンダーも関係なく一様《いちよう》に、「お前がどのくらい成熟しているのか、あるいはしていないのかを、きちんと正直に社会に示せ」と迫られている。この社会において女の年齢不相応なファッションはその女の価値の詐称《さしょう》であるとみなされ、罰される。
瀬戸マサキ 2025.04.09
誰でも

(このエッセイは縦書きで書かれており、画像で表示されていますが、下にスクロールすると本文に同じ文章が貼り付けてあります。)

 Xで、@ikychanという人が2025年4月6日に、次のようなトランスフォビックな投稿をしていた。

素朴な疑問なんだけど、「女になりたい男」で年相応《としそうおう》の『おばさん』の格好してるやついねーよな / セーラー服やらミニスカやら、「若い女の格好」ばっか。/ 女として生きたいんじゃなくて「若い女の旨味」が欲しいだけの、かえって『強烈な雄性《おすせい》』を感じる。

 がっくりきてしまった。何にがっくりきたって、この「寄り添わなさ」である。何かの現象を見て、きっとこうに違いないと見定めて、何も学ぼうとすることなく、似たようなことを思っている人に向けて発信し、溜飲《りゅういん》を下げ合う。

 先日別のところでもマイノリティについて「はなはだ疑問だ」みたいなことを書いている人がいて、そこに「本当に疑問なんだったら調べろよ」「調べればすぐにデマだってわかるぞ」というコメントがついていた。

 つまり、こういう手合いの「素朴な疑問」なんてものは疑問でなどさらさらなくて、実際は似たようなことを思っている人に向けた「ねえねえ、これってこうじゃない?(笑)」に過ぎない。ぱっと思いついただけの仮説を開陳《かいちん》し、たくさんのイイネと賛同コメントを得られれば、それが真実であるか否《いな》かなど心の底からどうでもいいのだろう。愚かしく、暴力的だ。

 冒頭の@ikychanという人の疑問は、もし真剣にそれと向き合うならば、本来もっと複雑に考えなければいけないものだ。

 まず正確に書き換えよう。これは「トランス女性が若い人向けのファッションを選びがちに見える[#「見える」に傍点]」という現象である。つまり、第一にそもそも、真実なのかどうか確定していない。こういう手合いの人々が想定するトランス女性の姿というのはおそらくまあ確実に雑なくくりであろうから、厳密に「トランス女性」の話ができているとは思えない。男性として生活しつつ女性装を楽しんでいる人なんかもごちゃ混ぜにしているだろう。

 その上で、ではもしその観察が本当に実態と合致していたとして——つまり厳密にトランス女性の話として、若い人向けのファッションを選びがちなのだとしたら——私たちが本来考えるべきことはたくさんある。

 ひとつに、果たしてトランス女性にとっての「若い人向けのファッション」とシスジェンダー(=トランスでない)女性にとってのそれが同じ意味を持っているのか、ということを考えなければいけない。つまり、十代、二十代、三十代と女性として社会に認識されながら生きてきたシスジェンダー女性と、二十代後半に差し掛かってようやく女性としての社会生活を始めることができたトランス女性がいたとき、その二人にとってミニスカートを履くことは同じ意味を持つのだろうか、女子向けの学生服を着ることは同じ意味を持つのだろうか。

 乱暴な言い方になるが、ちっと考えりゃあわかるだろうがよ。

 経験することのできなかった女子としての思春期や、現実には取り戻すことのできない青春を少しでも模倣《もほう》したいと思うのは、どこも不思議ではないでしょう。

 これはシスジェンダー女性にも言えることで、例えばだいぶ高齢になってから「若いころ結婚式を挙げなかったから」と言って改めて披露宴をやったり、ウェディングフォト撮影をしたりするのは現代において極めてよくあることで、なんならとても美しいことだと思われている。子どもから両親へのプレゼントとして行われることすらある。憧れていたウェディングドレスに身を包んで喜ぶ高齢の女性を見て「年齢|不相応《ふそうおう》な格好だ」と揶揄《やゆ》する人はいないだろうし、そんな人がいたら非難を浴びるだろう。

 ミニスカートを履いたトランス女性がいたとしよう。だから何だっていうんだ。「若いころに着れなかったから、今着たいんだろうな」くらい想像できるだろう。

 次に、果たして本当にトランス女性はシスジェンダー女性に比べて、より[#「より」に傍点]「若い人向けのファッション」を選びがちなのだろうか、ということを考えなければいけない。

 実際よく考えてみよう。シスジェンダー女性も、実はセーラー服やミニスカートを着ている。ハロウィンとか、ラブホテルとか、忘年会とか、もっと小さな内輪《うちわ》の集まりでは、セーラー服やミニスカートを着ている。

 トランス女性という言葉で誰を想定するのかにズレがある相手には伝わりにくいかもしれないので、ここでトランス女性を「出生時に男児であるとみなされ、現在は恒常的《こうじょうてき》に社会に女性として扱われていたり、そう扱われることを望んでいる人々」とすれば、トランス女性だってほとんどの場合セーラー服とかミニスカートを履くのはそういうハレ[#「ハレ」に傍点]の場だけである。

 元の投稿者がセーラー服やミニスカートを着たトランス女性をどこで見たのか知らないが、何らかのイベントだったり、内輪のノリがある場だったりしたのではないかと思う。

 日常生活でそういう格好《かっこう》をしているトランス女性もいる、と言われれば、まあ中にはそういう人もいるでしょうね、としか答えられない。例えば日常生活においてロリータファッションをしているシスジェンダー女性なら、私も知り合いにいる。以前住んでいた街では、ピンクのドレスでキティちゃんのグッズを全身にいくつも携《たずさ》えた女性を駅周辺でよく見かけた。噂《うわさ》話を聞く限りだと、シスジェンダー女性だろう。元気しているだろうか。

 一方で知り合いのトランス女性たちに関しては、日常生活で彼女たちが特別に自分の年齢とかけ離れた若い人向けのファッションをしているところを私は見たことがない。二十代なら二十代だな、四十代なら四十代だな、という格好である。

 もちろんこれは私の周りの話なので、社会全体について同じことが言えるわけではないけれども、だとしたら元の投稿者だって別に全国的な統計をとったわけでもあるまいにあんな暴論を開陳しているのだから、恥を知った方がいい。

 最後にもうひとつだけ、私たちが考えなければならないのは、なぜトランス男性についてはそのような現象が取り沙汰《ざた》されないのか、ということである。

 これはひとえに、そもそもトランスもシスジェンダーも関係なく、男性にとって「年齢不相応なファッション」という烙印《らくいん》は押されないからである。押されない、とまで言うと断定し過ぎかもしれないが、少なくとも女性に対してのそれと比べて、男性への烙印はろくに効果がないし、そのため、それを使って男性を貶《おとし》めようとする社会文化的な圧は存在しない。

 つまり、トランスもシスジェンダーも関係なく、女には「年齢相応[#「相応」に傍点]なファッションをせよ」という圧がのしかかっているということだ。

 男女のジェンダー差を考える上で忘れてならないのは、少なくとも私たちの生きる近代社会においては、成熟さと男性的魅力が結び付けられ、未熟さと女性的魅力が結び付けられている、ということだ。これはつまり、魅力的な男性であろうとすればするほど成熟した人間の姿に近づいてゆき、魅力的な女性であろうとすればするほど未熟な人間の姿に近付いてしまう——逆に言えば、成熟した姿を纏《まと》わなければ男性性に乏しいとみなされ、未熟な姿を纏わなければ女性性に乏しいとみなされるということだ。

 女は、若さにこそ価値がある——そういう社会の中で、女性はトランスもシスジェンダーも関係なく一様《いちよう》に、「お前がどのくらい成熟しているのか、あるいはしていないのかを、きちんと正直に社会に示せ」と迫られている。この社会において女の年齢不相応なファッションはその女の価値の詐称《さしょう》であるとみなされ、罰される。

 もう若くないんだから。
 いい年こいてよくそんな格好できるね。
 いつまでそんなことやってんの。

 そういう相互監視の文化が、男どもに「この女は本当に実際にちゃんと未熟で、それゆえ本当の魅力と価値があるのですよ」と若い女を売り込んでいる。女に「年齢不相応」という烙印を押すこの社会は、女衒《ぜげん》文化なのである。

 その点で、元の投稿者の発言は言外に「シスジェンダー女性はそんな年齢不相応な格好はしないのに」と言っているわけだから、どっぷり女衒文化に浸《つ》かってしまっているし、シスジェンダー女性を含めた全ての女性を抑圧する言説に加担している。この@ikychanという人がやっていることは全女性に対するジェンダーの取り締まりであり、非常に差別的で、抑圧的で、愚かで、悪である。

(しかもその投稿は引用投稿で、引用元は未成年者の投稿だったらしい。抑圧的な言説への加担だけに留まらず、若い人に対して謂《いわ》れのない非難をぶつけるという悪質さ。)

 であれば、私たちがやらなければならないことは唯《ただ》ひとつ。

「おばさんだって若い人向けのファッションしてもいいじゃん」と言い続けることだ。

 先ほど「若いころに着れなかったから、今着たいんだろうな」と想像するべきだと言ったが、まあセーラー服は制服だから置いておくとして、ミニスカートが「若いころに着れなかった」と、何か失われた青春のように扱われること自体がそもそも不当なのである。

 五十歳でも六十歳でもトランスでもシスジェンダーでもミニスカートを履きたければ履けて、誰も変な目で見てこない、って社会が一番良いに決まっている。ジェンダーの抑圧に対抗する者たちは、「若い人向けのファッション」なんて概念自体に反対すべきなのだ。

 私の母は六十七歳で、インスタグラムでライフスタイル系のコンテンツを発信している。五十〜六十代女性向けに、好きなファッションしていいんだよ、自由に生きていいんだよ、というメッセージを届けたいのだそうだ。私が母にインタビューした動画が近いうちに公開されるのだが、そこでも母は「好きなことやって生きるのが一番。周りの目を気にしたって、そいつらが何かの時に助けてくれるわけじゃないんだから」と言っていた。

 私の母はトランス支援者であるが、同時に、元の投稿者なんかよりもよっぽどフェミニストであるようだ。

(フェミニズムといえば、このエッセイのタイトル「ミニスカートの舞台裏」には元ネタがある。日本のフェミニズム史に多少なりとも通じていれば一発でわかるようなものだが、即時的コミュニケーションが覇権的なこの時代に果たしてどれだけの人がそんな過去のことを知っているだろうか。)

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