ノーモア
そこから逃げ出すキーワードは、NO MORE ARIGATO だと思う。
「誠意がある」「敬意がある」ということの大切さについて最近はよく考えていて、というのもどうにもどうやら日本には、自分が持ってないマイノリティ属性を持ってる相手を前に物怖じしてしまうというか、「まちがったことを言ってはいけない」「傷つけてはいけない」という強い自己強迫に陥る人というのがたくさんいるらしいということを、まがりなりにも差別問題について講演なんかをやっていると痛感させられているからなんだけれど、いや、もちろんほかの国にもそういう人はいるに決まっていて、アメリカでも一定の期間を上品な、というか上品自認の白人に囲まれて過ごしているとそんな空気が蔓延してるのを感じはする。
でもまあ、全体の傾向として、というもやっとした言いかたになるけれど、そもそもが「一歩でも踏み外したらならず者」みたいなハードモードをプレイさせられている日本の人たちにとって、まちがうことへの恐怖が一層強いのは自然なことなのだろうと思う。一六歳まで日本にいてアラサーになって戻ってきた私にも、そういう部分がないわけじゃないし。
グーグルストリートビューより。工事中の駅の様子。
なんでこんなことを書いているかというと、時々思い出したように昔住んでいた街々をストリートビューで巡るという郷愁バーチャル旅行をするのが好きで、さっきもかつて週一くらいで利用してたシカゴの六三番&南カッテージグローヴの交差点にある駅をストリートビューしに行ったんだけど、そしたらしょっちゅう買い物していた駅すぐ横のスーパーマーケットが完全に更地にされたのち鉄骨が組まれている様子が目に入ったからです。
建設中の看板には「Woodlawn Station」と書かれていて、アパートの下にテナントが入るスタイルの、ほのかにジェントリフィケーションの香り漂う建物ができる予定らしい。ストリートビューの日付が昨年九月だったから、今頃もう完成しているだろう。
シカゴの六三番と聞いてピンと来る人には当然わかりきったことだけれど、この一帯は右を見ても左を見ても下を見てもアフリカ系アメリカ人しか目に入らないような場所で、三ブロック北のシカゴ大学では新入生に「絶対に行くな」と指導しているいわゆる「危険ゾーン」でもある。私のアパートは六一番と六二番のあいだにあって、生活に必要なものなんかをこのエリア以外で買おうとすると、バスをへたしたら乗り換えないといけなかったので、怠惰な私は毎日のように六三番のスーパーやガソリンスタンドのコンビニに行っていた。
ぶっ壊れた建物やだだっ広い空き地のあいだを進んで、AriZona のクソ甘い Green Tea や Sweet Tea、SoBe、Lays、Corn Nuts、Tostitos なんかを抱えてアパートに戻るそのあいだ、一度だって白人の姿はおろかアジア人もヒスパニックの人もついぞ見ることはなかった。社会保障事務所に行ったときも、ごった返す施設内にただ一人私だけがアジア系だった。電車に乗れば、うらぶれて放置された建物を次々に映し出す車窓を三〇分以上眺め続けないと、白人は乗り込んでこない。政府批判のラップパフォーマンスが始まって、車両全体で手拍子で盛り上げたこともあった。そんな、不均衡が恥ずかしげもなく剥き出しの街で、どんなに大雪が降っても六一番までしか除雪されない街で、なぜかそのエリアの黒人のあんちゃんたちに私はよく "ma'am" と呼ばれていた。つまり、中年以降の女性だと思われていた。
日本の人々はよく、建前と本音とかワビがどうしたサビがどうしたと自国の文化をさも特別げに語るのが好きだけれど、アメリカにはまた別の気の遣いかたがあるというだけの話で、たとえば成年前の人の前でFワードを使わないだとか、年配の人には丁寧に接するだとか、あるいはバスで隣に座った人にアゴをクイッと上げながら口角を上げるだとか、そういう「建前」に関しては日本の人々よりもアメリカの人々のほうがよっぽど長けている。二二歳くらいで日本に一度戻ってきたときは、むしろ日本の人たちがそういうことを一切しないことにびっくりしたものです。なんて無礼な人たちなんだろう、と。すぐに慣れて、どっちがいいとかじゃないよねと納得したけれども。
私を "ma'am" と呼ぶ黒人のあんちゃんたちは、つまり、本当にアジア系のおばさん(と彼らが認識している人)に対して敬意を持っているかどうかは別として、少なくとも建前上は敬意を表していたわけです。"ma'am" 呼ばわり以外にも、ドアを開けてくれて待っていてくれたりだとか、とにかく諸々丁寧な言葉遣いで接してくるあんちゃんばっかりで、いやあんちゃんと言っても年齢は色々だし、ちょーかっこいいファッションの元気な女性店員さんたちも同じように敬意を持って接してくれてた。別に相手の認識を改めてもらう必要もないのでおとなしく「アジア系のおばさん」と思われたまま生活してました。
そんなある日、スーパー入口付近のスロープのとこで煙草を吸っていたら「失礼します、ma'am」と声をかけられて、あわてて「あ、ごめんなさい」と言って体をくねらせて道を空けたところ、「しょぼくれたジジイ」を漫画で描いたらまさにこんな感じって風体の黒人男性が「ありがとう」と言うとすぐにこっちを凝視してきたので、アメリカ流のワビとサビで口角を上げて見つめ返すと、「あなたは女性かね男性かね」と聞いて来る。そんな不躾な、と思ったけれど、「男ですよ」と答えると、矢継ぎ早に「コリアン? ジャパニーズ?」と聞いてきた。
「ジャパニーズですよ」と答えたら今度は「このへん出身なの?」と聞かれたので、「いえ、ジャパンで生まれて、いまはこっちに住んでいます」と答えた。女か男かわかんない上にアジア系の知らない顔が自分の生活圏にいるという事態を脳内でプロセスし終えたのか、彼は「オーケー」と言ってスマイルとともに回れ右をして立ち去って行った。
不思議なやりとりだったなあと苦笑いをしていると、十数メートル先から彼がこちらを向いてとても大きな声でこう言ったのです。
「NO MORE ARIGATO、でいいんだっけ!?」
彼の身の回りの装備からして、路上生活を送っている人なんだろうなという推測もあったからかもしれない。私はふいに泣きそうになって、満面の笑顔で答えた。
「そうですよ!」って。
私は自分の出身国や出身地域にあまり思い入れを持っていないので、この時の喜びはそういうたぐいのものではない。
そうではなくて、いや、そんなくだらないことよりも!
彼はこの十数メートルをのそりのそりと進みながら、彼の知る「ジャパン」に関することを頭の隅々からかき集めて、なんとか、なんでもいいから私に、私の出身地への敬意を示す言葉を向けようとしたのだ。
もちろん、NO MORE なら HIROSHIMAS / NAGASAKIS だし、ARIGATO なら DOMO ARIGATO MR. ROBOTO だ。完全にこの二つが混じっちゃってる。でも、こんな嬉しい異文化交流がこれまであっただろうか!
私は灰になって行く煙草を右手に任せ、大きく上げた左手で、彼のこれまた大きな waves に夢中になって応えた。
異質なる者と正面から向き合うとき、私たちは果たして徹頭徹尾「ただしく」なければいけないだろうか。たとえば、「赤の他人に最低限感じ良くする」なんていうほんの小さなことを心がけるだけで、私たちの社会は今よりも随分と住みやすい場所になるんじゃない?
一所懸命に「LGBT の人に言ってはいけない言葉」を暗記しようとする善意の人々や、逆に「そんなのは言葉狩りだ、ホモはホモだ、レズはレズだ!」と吹き上がる悪意の人々が、オンラインにもオフラインにもたくさんいる。けれど、ただしくあろうとするよりも、ただしさに背を向けるよりも、まず人間同士としての誠意や敬意を持たなければ、何の意味があるだろう。その先に、押し付けられることのない自分の「ただしさ」を見つけることができるのだろうに。
「わたし」と「あなた」という、それこそ動物の一種としての人間の身体同士が、意思と意思が、そして命と命が、互いに互いをそれと認め合わなかったら、人間はいつか自動操縦モードを搭載してしまうだろう。あるいはもう搭載しているのかもしれない。
そこから逃げ出すキーワードは、NO MORE ARIGATO だと思う。
(初出:ブログ『包帯のような嘘』二〇一八年)
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