2023年8月31日(木) 大事なことを教えてくれた二人の移民
2005年の夏から2007年の春まで、私はカリフォルニア州サンフランシスコから BART(Bay Area Rapid Transit ベイエリア高速鉄道)で1時間半くらいのプレザント・ヒルという街に住んでいた。
そこではディアブロ・バレー・カレッジ大学に所属していた。同州の高校に編入したタイミングが受験時期にギリギリ間に合わなかったので、二年後に志望校に編入するつもりでこの二年制の大学に入ったのだった。
不本意だったとはいえ、この大学に入ったことで生まれた人間関係や、そこでの思い出は、とても大事なものとなった。ふと思い出してグーグル・ストリート・ビューを開く。

Google Street View
今は2023年なので、16年も経っているのだが、住んでいたアパートも、大学も、あまり変わっていなかった。懐かしいな、と思い、よく通っていた近所のスーパーまで足を——と言っても画面上で移動しただけだが——伸ばした。それが上の画像である。
そう、16年も経っているのだ。変わっているに決まっているのだ。アパートと大学が変わっていなかったのは本当にたまたまで、普通はこうして景色は変わるものなのだ。
だけど、とてもショックだった。
上の写真の左側、スペイン語の看板のある店は、メキシカン・レストランらしい。ここにはかつて、ギリシャ移民の老夫婦が営んでいたファストフード店があった。Gyros というケバブに似た料理を出していた。私はこの gyros が大好きだった。甘くないヨーグルトが少しスパイスの効いたソースと絡んで、週に1回、いや2回は食べていた気がする。
学生が多い街ではあるが、それでもあまり繁盛しているとは言えない店だった。この大学に通うのは大半が地元の若者や中高年で、その多くは少し離れた街に住処を持ち、仕事の合間に授業を受けにくる。大学の近くのアパートに住んで近辺をうろうろしているのは大半が遠くから来た外国人留学生で、かれらにとって gyros はあまり身近な食べ物ではなかった。
それをいいことに——と言ったら彼は心外だろうが——ここの店主はたいして長くもない営業時間の大半を店先のテラス席に座って過ごしていた。マイク真木のような、今でいうイケオジだった。横にサーフボードが立てかけられていても不思議ではない。いつしか私は、決まって羊肉の gyro を注文し、その親父が座っているテーブルに腰掛けるようになった。
私はこの親父が大好きで、そしておそらく親父も私のことが気に入っていた。
話す内容はどうでもいいようなことだった。互いの出身文化の話などほんの数回の会話でネタが尽きて、なんだか政治の話とか、この街の昔話とか、そんな話ばかりをした。
政治の話では、時々意見が食い違った。マイク真木はどちらかというと中国に良いイメージをもっておらず、私はそれにいちいち突っかかった。そうするたびマイク真木は「なるほどね」とあまり納得していない様子で道路の方に目をやった。
思い返せば、意見を違えていても冷静に議論し、納得させられなくても対話を続ける、というコミュニケーションのスタイルを学んだのは、この親父からだったかもしれない。
そんな gyros 屋が、跡形もなくなっていた。テナントが変わって別の商売が始まっていた、というレベルではなく、建物自体が建て替えられている。

Google Street View
無くなっていたのは gyros 屋だけではなかった。上の航空写真の左側にあるロータリーの右下、先ほどのメキシカン・レストランの北側——今は遊歩道が張り巡っているような場所には、かつてチャイニーズ・レストランがあった。
わざわざ遠くのアジアン・スーパーマーケットに買いに行くほどアジア系の食べ物を欲していたわけではない私にとってこの場所は、時々食べたくなる醤油っぽい味にありつける最高の場所だった。二週間に一回は通ったと思う。
そこの和田アキ子にそっくりの中国人店主は、私が通った二年間、ついぞ一度も笑顔を見せることはなかった。店に入っても、和田はこちらをチラっと見るだけ。席についてメニューを眺めていると「Ready?」と近づいてくる。持ってきた水をテーブルに勢いよく置いて、注文を復唱すると、和田はいつも何も言わずスっと厨房に入っていった。
無愛想な人だな、と思っていた。でも別に、困ることはない。食べたいものが手に入れば構わないし、第一そんなに高い料金を払っているわけでもない。味はうまかったので、こんなもんだろうと思って二年間通った。
ところで私は、食べ物の好き嫌いが激しい。中華料理によく使われる食材だと、タケノコ、キクラゲ、インゲン、ヤングコーンなどが全く食べられない。だから注文した品にそれらの食材が入っていると、横にやって残すしかなかった。中華料理は詳しくないので、三回に一回はそういう「はずれ」に当たっていた。
さて、めでたく四年制大学への編入が決まり、引越しを目前に控えた2007年春。私は最後の最後にやはりここのチャーハンが食べたくなって、ひとり歩いて和田に会いにいった。いつもと変わらぬ無愛想な和田に「Ready?」と聞かれた時、せっかくだから食べたことのないものを最後に食べてみようと、読み慣れない品を注文した。
和田は復唱し、厨房の方に体を向けたが、すっとこちらを向き直しこう言った。
「You don't like bamboo shoot. This is a lot of bamboo shoot. I can give you carrot, no bamboo.」(あんたはタケノコ嫌い。これは多くのタケノコ。タケノコ無しでニンジンあげることできる。)
細かな表現は覚えていないが、そこそこに再現できていると思う。和田はそう言って、「Yes, please.」(はい、お願いします)という私の言葉を背中で聞きながら厨房に入っていった。
「無愛想」とは、何だろう。相手の気持ちを慮れば、勝手に愛想が良くなるものだと私はそれまでずっと思っていた。突然ふりかかった和田の親切心に——そう、私はこれを「ふりかかった」と感じた——、私は彼女の態度との矛盾を感じずにはいられなかった。と同時に、もしかしたら、私はずっと彼女の親切心に気づいていなかっただけかもしれない、と思った。
そんな店が、二つも、跡形も無く消えている。
私に大事なことを教えてくれた二人の移民は、今どこで何をしているだろう。
マイク真木は当時60代、和田は50代くらいだっただろうから、今でも健在かもしれない。マイク真木は引退してホームに住んでいるかもしれないな。和田はまだまだ元気な気がする。どこかでまた店をやっているだろうか。あるいは故郷に帰っただろうか。
当時の私には「おじさん」「おばさん」でしかなかった二人だが、今思えば、かれらにも同郷のコミュニティとの交流があったり、笑い合う友人がいたり、ぎくしゃくした関係の親戚なんかもいただろう。いったいどういう経緯で米国にやってきたのか、そういえば聞いたこともなかった。
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