名もなき社会運動の現場

あなたの「現場」は、そこです。そう、今あなたがいるところ。今日あなたが行ったところ。明日あなたが行くところ。あなたの「現場」は、LINEの画面かもしれない。電話回線かもしれない。国会前かもしれないし、近所のゴミ置き場かもしれない。家を一歩も出なくなって、あなたのいるところが「現場」なんです。あなたが社会変革を望む人である限り。
瀬戸マサキ 2024.07.07
誰でも

 七月は母、姪、甥の三人の誕生月なので、集まって焼肉を食べに行った。仕事では北関東に週に一回行っているけれど、プライベートでは久しぶりだった。ちょうど前日に中学時代からの親友と会う予定を入れていたので、前日入りすることに。共通の知り合いが最近始めた飲み屋で集合したのだが、その日はちょうど私の母が臨時の手伝いに入っていたので、FAT CATS(私と母が去年まで経営していたダイニングバー)の元常連さんたちが母のインスタグラムのストーリーを見て、母の料理目当てで何人も集まっていた。

 閉店時間まで飲み続け、二次会を母の自宅マンションで行うことに。酒が入っていることもあり、私たち六人の話題はあっちに行ったりこっちに行ったり。内容も、将来の介護不安から転職の相談、そして屁にまつわる過去の面白エピソードまで、多岐に渡った。結局午前二時半くらいまで話していたのだが、その中で私が特に「あぁ、今日この話ができてよかったなあ」と思ったことをシェアしたい。

 それは、婚姻制度についてだった。

 私は同性婚の法制化を一応、一定程度は支持しているものの、『現代思想』(二〇一五年十月号)に寄せた「排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流『LGBT運動』と同性婚推進運動の欺瞞」で書いた通り、根本的に婚姻制度自体に懐疑的な立場である。その理由は、配偶者同士や親子関係など主に血縁に基づく「家族」という関係性が、他の関係性に比して特権化されている状況を、好ましく思っていないからだ(詳しくはその拙稿をご覧いただきたい)。

 例えば、どんなに友人が多かろうと、どんなに深い友人関係を築いていようと、現在滞在権を持っていない者がそれだけの理由で日本での滞在権を取得することはできない。実際私の友人が今まさにこの問題に直面しており、法務大臣宛に嘆願書を書いたばかりである。さらにこの制度は、「日本人の配偶者等」ビザで滞在している者が日本人配偶者からDVを受けていたとしても逃れることを選べない、などという状況を作り出してもいる。これも過去に私の身の回りで実際にあった事例だ。

 また、パートナー同士のあり方として婚姻関係を結ばない選択肢も年々広まっている。どんなに大切な相手でも、深い関係でも、長い関係でも、婚姻関係を結ばない人たちが増えている。その理由は、婚姻制度に反対の立場であるからとか、既に子供がいて結婚に反対されているとか、苗字の変更を避けたいとか、あるいはどちらかに絶縁状態の配偶者が既にいるとか、様々だ。私のすぐ身の回りにも、両者とも別の人と婚姻関係を結んでいた高齢の男女カップルがいた。夫婦関係は破綻しており、男性が高齢になってようやく二人は生活を共にするようになった。その男性はそれから十年近く生きたが、病気や加齢によって必要となった介護や日常生活のことを世話したのは、疎遠になっていた家族ではなく、一緒に住み始めたパートナーの女性だった。そしてその女性は、男性が亡くなると同時に「ただの他人」になった。

 母のマンションでの二次会で、Hは今感じている不安をシェアしてくれた。それは、付き合って三年目になる彼氏が親兄弟と疎遠なので、何か彼の身に起きたらどうしよう、というものだった。Hと彼氏が結婚しないのは、詳しく聞いたわけではないが、Hに既に子どもや孫がいること、以前していた結婚生活に良い思い出がないことなども関係しているかもしれない。いずれにせよ他人が「じゃあ結婚すればいいじゃん」と口を出すのは憚られよう。

 私はHの話を聞いていて、あぁ、Hもか、と思った。私もHも、先ほど話した高齢カップルの女性のように自分がいつか「ただの他人」になる日が来ることを、恐れながらも、分かっている。私の周りの同性カップルたちも、多かれ少なかれ似た不安を抱えている。運良く互いの家族と良好な関係にあり、簡単に連絡が取れるような場合もあるだろうが、そういうケースですら、亡くなった瞬間に他人扱いをされ、葬式にすら出られなかったという例をいくつも耳にしたことがある。

 私とHは、そもそも法律上の配偶者に特権的な立場が与えられていることが人々の生活実態に合ってないよね、という話をした。Hはさらに、制度として、医療行為に同意できる人は誰か、病院の面会制限時に面会を許される人は誰かなどを、事前に本人が登録しておけるようになったらいいのに、と話した。それも、「そういうこともできる」のではなく、誰もが必ず登録する制度にしたらいいんじゃないか、と。子どものうちは保護者が自らを登録するが、成長に伴って本人が自分の意志で登録者を変更したり、追加したり、削除したりできる、そういう制度だ。さらに私が「結婚しても配偶者が自動的に登録されるんじゃなくて、別途本人が手続きして相手を登録する、みたいなのが良さそう」と言い、二人で「そうやって婚姻制度の意味がどんどん削がれていって、文化的だったり宗教的だったりの意味だけが残ればいいよね」という結論に至った。

 Hは社会問題について特別高い意識を普段から持っている人ではないし、社会運動に参加することもない。法律や医療の専門家でもないし、家庭の事情で、そもそも受けた教育は義務教育のみだ。そのHが、自らの体験や見聞きしてきたことに基づいて、ものすごくラディカルな婚姻制度批判に至った。

 昔、こんなことを書いた。

「イベントの成功とか新聞掲載とかの分かりやすい「成果」がないと運動してる気になれない人が多い気がします。生活用品のストック管理など、炊事洗濯掃除といった名前がついてない家事を指す『名もなき家事』という表現が生まれましたけど、そんな感じで『名もなき社会運動』も注目を浴びたらいいな。」

「自分の生活圏で対話をすること、互いの生を肯定して会話をすること、手の届く範囲で変化を作り出すこと——成果に固執しない『名もなき社会運動』。メディアは取材に来ないし、ハッシュタグも生まれないし、寄付も集まらない。でも社会運動の少なくとも半分はそういうものでできてると思います。」

「社会運動の『現場』とは、職場の給湯室であり、中学の同窓会であり、正月の親戚の家であり、週一で通うスポーツジムであり、近所のワークマンである。そんな気持ちで社会運動に携わっていきたいね。」

 これを踏まえれば、Hと私の「現場」は、飲みの二次会だった。

画像説明:焼肉屋の灰色のテーブル。三人が箸の先につけたマシュマロをグリル部分の上に差し出して焼きマシュマロを作ろうとしている。一人だけ手が見えており、乳白色のネイルが施されていて、奥に見える腕には Apple Watch がついている。他にテーブルにはタレが入った皿や、アルミホイルが乗った容器、トングなどがある。

画像説明:焼肉屋の灰色のテーブル。三人が箸の先につけたマシュマロをグリル部分の上に差し出して焼きマシュマロを作ろうとしている。一人だけ手が見えており、乳白色のネイルが施されていて、奥に見える腕には Apple Watch がついている。他にテーブルにはタレが入った皿や、アルミホイルが乗った容器、トングなどがある。

 飲んで喋って寝て、翌日の誕生月焼肉パーティーを終えて埼玉の自宅に帰ると、パートナーのNが新NISAについて調べていた。年金制度の行く末が心配で、いよいよ貯金だけでなく投資を始めようと準備しているところなのだ。

 ちなみにNはいわゆる「ノンポリ」である。ゲイ当事者ではあるが、 LGBTQ+運動やフェミニズムはおろか、他の政治的・社会的問題にもほとんど関心が無い。なので今日もきっと投資先の選定とか、投資額の相場や目安、なんてことを調べてるんだろうなと思っていたら、彼の口から「新NISAが出た時、すごい批判があったんだってね」という言葉が出てきた。「政府が投資を推すのは、国は面倒みたくないから自分で何とかしてね、ってことなんでしょ」と。

 おぅおぅおぅ、そうだよね、ほんとムカつくよねって話になって、私も「投資できるだけのお金の余裕があればまだいいけど、そういう人ばっかりじゃないのにね、家賃の支払いすら厳しい人もいるのに」と加えた。その後は、金持ちがどんどん金持ちになっていくんだね、という救いの無い結論に行き着くしかなかったけれど、それでも私は、彼が(基本的に「ノンポリ」とは言え、というかむしろだからこそ)こうして社会制度や政治の流れに不満を持ち、声に出してくれたことを、嬉しいと思った。

 私たちの生活は、「現場」ばかりである。

 そういえば、先日ツイッター(X)で東京在住の外国人が「私は選挙権無いけど、ぜひ蓮舫に入れてってママ友に話したら期日前投票に行って蓮舫に入れてくれた。これって私が一票入れたってことになるんじゃない?笑」と冗談を交えて投稿していた。

 投票することだけが、社会を変えるのではない。そうであったら、選挙権を地方政治においてすら認められていない外国人は社会変革に寄与していないことになってしまう。特に日本は旧植民地出身者たちから戦後突然に国籍を剥奪した歴史を持つ。それゆえ日本には三世代、四世代と国内に在住していながら選挙権を持たない人々がたくさんいる。自分の生まれ育った町の政治にすら参加することを拒まれているのだ。

 私はかつて大学の公共政策と名のついた授業で、教員に噛みついたことがある。彼は社会を変えるための方法は投票である、と力説していた。あたかもその教室にいる全ての学生、そしてTA(ティーチング・アシスタント)に、選挙権があるのが当然だとでも言うかのように。実態は全然そうではない。私たちの身の回りには、選挙権を持たない人たちがたくさんいる。

 確かに選挙で変えられることはたくさんあるだろう。けれど、それは社会変革のほんの一側面でしかない。私たちは過去の社会運動の歴史から、デモやシットイン、ストライキなどの直接行動(direct action)と呼ばれる政治参加のあり方の重要性をしっかりと学んできたはずだ。さらに、これも直接行動の一種とされるかもしれないが、イスラエルによるパレスチナ侵攻やパレスチナ人虐殺に反対する立場から、イスラエルの政府や企業に利する経済行動のボイコットを呼びかけるBDS(「ボイコット」Boycott 、「投資撤収」Divestment、「制裁」Sanction )という運動も起きている。つまりイスラエル産の作物を買わないとか、イスラエル大使館からのスポンサーシップを拒否するとか、イスラエルの大学教員を呼んで講演させたりしないとか、そういうことである。BDSの対象にはイスラエルの企業だけでなく、イスラエルに支店があったり、イスラエルの政府や企業と大口の取引がある別の国の企業も含まれる。例えばGoogleとAmazonは、イスラエル政府とイスラエル軍にクラウドサービスを提供している。このようにBDSの対象となる企業には多くの人の生活に不可欠となっているようなサービスもあるため、全てをボイコットすることは難しいだろうが、例えばマクドナルド(イスラエル軍に無償で食事を提供していた)については別のハンバーガー屋に行けば避けることができる。

 話が逸れたが、つまり私たちは、すでに知っている。投票だけが社会変革への唯一の参加方法ではないと。なのに、選挙が始まると、反差別を標榜している人たちですら、選挙権を持たない隣人たちのことを忘れてしまったような言葉遣いをし始める。「今大事なのは投票だから」? 確かにそうだろう。けれど、そのあなたの言葉は、それを目にした人をどんな気持ちにさせるだろうか。選挙権が無い私たちの隣人があなたの言葉を見た時、どんな気持ちになると思う?

 私の友人は、齢三十を超えて結婚した時、選挙権のある配偶者が投票するのを見てとても心が乱れたと言う。子どもが成長して選挙権を得た時も。「選挙の時期は嫌ですね」と、気持ちをシェアしてくれた。

 あなたの「現場」はどこですか。

 いや、どこですかなんて聞き方はおかしいね。

 あなたの「現場」は、そこです。

 そう、今あなたがいるところ。今日あなたが行ったところ。明日あなたが行くところ。あなたの「現場」は、LINEの画面かもしれない。電話回線かもしれない。国会前かもしれないし、近所のゴミ置き場かもしれない。家を一歩も出なくなって、あなたのいるところが「現場」なんです。あなたが社会変革を望む人である限り。

2024/07/11 追記

昔書いたツイートを探してたら、目的のものは見つからなかったけどこれが見つかりました。

瀬戸マサキ | Masaki Seto
@mskseto
@cmasak 大きな規模の運動ももちろん必要だけれども、規模が大きいから成果も大きいとは限らない。また、わかりやすい成果がなくても意味のある運動というのもある。大きい運動が取りこぼす問題もある。個々人の動きによって漸進的に生み出される成果もある。そう、強く思った。
2013/09/25 02:45
5Retweet 7Likes

スレッドになってるので、よかったら開いて見てみてください。ってかさ、2013年だって。11年前。時の流れ早すぎちょっとスローダウンしてほしい。

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