「想像する」力/意志

情報が爆発的に増え、それにアクセスするどころか発信することまで多くの人にとって容易になった現代、急速に萎んでいったのは、私たちの「想像する」という力/意志だと思う。
瀬戸マサキ 2024.11.15
誰でも

 先日高崎経済大学に招かれて話したことの一つに、クィアなり何なりのマイノリティが語るときにlived experience(生きられた経験)を求められるという問題があった。つまり何らかの「実体験」、それこそ学生時代のいじめとか、パートナーとの住まい探しで苦労したとか、親友への恋心と失恋とか、親へのカミングアウトとか、そういう話を求められる。

 もちろん実体験を語ることはself-empowering(自分自身に力を与える)だけれど、私たちクィアは「辛かった過去」や「乗り越えてきた壁」だけでできているわけではない。私たちには「顔はいいけど話がつまらなすぎるノンケの悪口で盛り上がった夜」もあったし、「特定の性別の声の出し方についてアドバイスをもらった二次会のカラオケ」もあったし、「クィアなんて自分一人だと思ってたら幼馴染もクィアだと知って笑いあった帰り道」もあった。それら全てlived experienceなんだけれど、そんな話をシスジェンダー/ヘテロセクシュアルの聴衆が求めてはいないことを私たちは知っている。私たちの本当の意味でのlived experienceは序列付けされ、表向きに磨かれたものだけが選抜を通るようになっている。

 あえて極端なことを言うけれど、当事者のlived experienceそれ自体には、人々が思うほどの大きな価値はない。それよりも、私たちの複雑で多様で多分に凡庸なlived experienceのうち、どれがどういった理由で選ばれ、それを語ること/語らせられることがどういう効果を生み出す(と期待されている)かの方がよほど重要だし、重大だ。

 選んだり期待しているのは、シスジェンダー/ヘテロセクシュアルのマジョリティの側だけではない。この社会に生きている私たちクィア当事者もまた、社会の規範との共犯関係において、選んだり期待している。「こういう話がいいんですよね」、「こんなふうに語ったら受け入れようと思ってもらえるんですよね」、「こういうオチにすれば笑ってくれますよね」、「こういうキャラでやってれば人気が出て広告収入が入ってくるんですよね」……。

 例えば「乗り越えてきた壁」だって、それを語った同じ口で継げる言葉は、「そんな壁は社会から取り除きましょう」か、あるいは「その壁に比べたらお前の悩みなんて簡単に乗り越えられるよ」と説教みたいなことをするかの二つくらいだろう。前者は活動家に多くて、後者はいわゆる「オネエ有名人」に多い。どちらにも適切なオーディエンスがいて、うまく届けばオーディエンスから期待通りの反応が返ってくる。なぜなら、そのオーディエンスは、私たちが口を開く前からその内容にそもそも同意していたのだから。

 やっぱそうだよねと思えたり、スカッとすること——つまりマジョリティのlived experienceに合致し、それを改めて肯定してくれるようなこと——を言って初めて、私たちの語りは存在を許される。ふざけた話である。

 マイノリティが語る綺麗に整えられた選抜のlived experiencesのうち、しかも自分の感覚と合致するものにしか耳を傾けないマジョリティに対して、私たちはそろそろ「想像しろよ」と突き放していいんじゃないかと思う。というとだいぶ乱暴な話に聞こえるかもしれないが、ここには、私たちも文脈によってはマジョリティの立場を持っているという前提がある。つまり、私たちも含め、誰もがもっと「想像しよう」としなければならないのだ。

 誰にでも複雑で多様で多分に凡庸なlived experienceがあるだろうと想像する。とあるマイノリティ集団を見たとき、そこにはとんでもない悪人も多少はいるだろうし、にわかには信じ難いほどの善人もいるだろうし、それ以外のほとんどの人はそこそこ良いところも悪いところもあるだろうと想像する。全員が同じような意見を持ってるわけなんてないよねと想像する。辛かったことも楽しかったこともあるだろうねと想像する。トラウマを抱えてる人も、何らかの巡り合わせで乗り越えた人もいるだろうし、そもそもそんなに傷ついてきたわけじゃない人もいるだろうと想像する。明らかに不当な差別があっても、その影響を強く受けた人もいれば、比較的その被害から逃れやすい境遇だった人もいるだろうと想像する。同じだけの不当な思いをしても、それを個人的な試練だと受け止めてる人もいれば、修正されなければならない社会の欠陥だと認識してる人もいるだろうと想像する。

 情報が爆発的に増え、それにアクセスするどころか発信することまで多くの人にとって容易になった現代、急速に萎んでいったのは、私たちの「想像する」という力/意志だと思う。自分に足りない情報を想像で補うのではなく、「知らないものは存在しないもの」と思って構わないという文化が覇権的になっている。

5人の若者が向かい合って語り合っている様子のイラスト(Canva の AI 生成による)

5人の若者が向かい合って語り合っている様子のイラスト(Canva の AI 生成による)

 この「想像する」力/意志の欠如は、詳らかに説明され、説得させられたものだけが「確からしい事実」として認定されるという文化の形成に寄与している。例えば「とある差別が存在する」という言明が「確からしい事実」として認定されるには、それを説明し、マジョリティを説得しなければならない。マジョリティは「きっと差別があるだろう」と想像する意志を失っているからだ。マジョリティは、マイノリティの一部が差別の存在を訴えても、また他の誰か同じマイノリティの人に差別の存在を否定されると、それに対して「どっちだよ」という態度をとり、「事実」認定を保留にしてしまう。

 マイノリティの中に差別の存在を痛感している人もそうでない人もいるということは、実際に差別という不正義が存在するかどうかとは本来無関係のことだ。そんなこと、「想像」すれば当たり前に気づけるはずなのだ。

 それでも気づかない。あるいは、気づかないふりをする。気づかない方が、保留にしておくほうが、マジョリティにとって楽だから。

 気づいて欲しければ、一貫した説明をし、説得してみせよ? しかしそれは原理的に不可能なことなのだ。どんなマイノリティ集団にも「いや、自分は気にしたことないですね」と言う人がいるのだから、一貫した説明などできるわけがないし、どんなに客観的と思われる事実をいくら提示しても、マジョリティは「事実」認定をする側であるという驕り/特権を利用して、「でもそれは差別ではなくて正当な区別なのではないか」などと「疑義」「懸念」「慎重さ」のカードを切ってくるから、説得が完遂することはない。

「想像する」力/意志を失うことは、こうして「自分の知らないこともたくさんあるし、自分が死ぬまで納得しなくても存在する事実はある」という当たり前のことを受け入れなくなることも意味している。

 初めから不均衡なこの交換条件において、私たちは今後もあれやこれやと説明や説得を試み続けるだろう。確かにそれは社会を「今より少しマシ」なものにするために必要なことだ。しかし人々が「想像する」力/意志を取り戻さないことには、私たちが実質的な意味での差別の解消に到達することはない。それは、人間が同じ人間として他者と向き合う時に必然的に発動するはずの/発動するべき力/意志なのだから。

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