「想像する」力/意志
先日高崎経済大学に招かれて話したことの一つに、クィアなり何なりのマイノリティが語るときにlived experience(生きられた経験)を求められるという問題があった。つまり何らかの「実体験」、それこそ学生時代のいじめとか、パートナーとの住まい探しで苦労したとか、親友への恋心と失恋とか、親へのカミングアウトとか、そういう話を求められる。
もちろん実体験を語ることはself-empowering(自分自身に力を与える)だけれど、私たちクィアは「辛かった過去」や「乗り越えてきた壁」だけでできているわけではない。私たちには「顔はいいけど話がつまらなすぎるノンケの悪口で盛り上がった夜」もあったし、「特定の性別の声の出し方についてアドバイスをもらった二次会のカラオケ」もあったし、「クィアなんて自分一人だと思ってたら幼馴染もクィアだと知って笑いあった帰り道」もあった。それら全てlived experienceなんだけれど、そんな話をシスジェンダー/ヘテロセクシュアルの聴衆が求めてはいないことを私たちは知っている。私たちの本当の意味でのlived experienceは序列付けされ、表向きに磨かれたものだけが選抜を通るようになっている。
あえて極端なことを言うけれど、当事者のlived experienceそれ自体には、人々が思うほどの大きな価値はない。それよりも、私たちの複雑で多様で多分に凡庸なlived experienceのうち、どれがどういった理由で選ばれ、それを語ること/語らせられることがどういう効果を生み出す(と期待されている)かの方がよほど重要だし、重大だ。
選んだり期待しているのは、シスジェンダー/ヘテロセクシュアルのマジョリティの側だけではない。この社会に生きている私たちクィア当事者もまた、社会の規範との共犯関係において、選んだり期待している。「こういう話がいいんですよね」、「こんなふうに語ったら受け入れようと思ってもらえるんですよね」、「こういうオチにすれば笑ってくれますよね」、「こういうキャラでやってれば人気が出て広告収入が入ってくるんですよね」……。