f/q 交換日記(2026/8/2・瀬戸マサキ)
文筆家の小沼理《おぬま・おさむ》さん、アーティストの近藤銀河《こんどう・ぎんが》さん、批評家の水上文《みずかみ・あや》さん、そして私瀬戸マサキ《せと・まさき》の4人でお送りしている『f/q交換日記』、今回が第12回、なんと最終回です。

近藤銀河さん作のバナー画像 / ALT:「f/q 交換日記」というタイトルのアートワーク。背景は淡いピンクと青のぼかし効果で、中央に白い点線で囲まれた枠があり、その中に「f/q」と「交換日記」という文字が点線で表現されている。画像の四隅には「水上文」「小沼理」「瀬戸マサキ」「近藤銀河」という4人の名前が配置されている。全体的に柔らかく幻想的な雰囲気のデザイン。
バックナンバー
第1回 水上文さん
第2回 小沼理さん
第3回 近藤銀河さん
第4回 瀬戸マサキ
第5回 水上文さん
第6回 小沼理さん
第7回 近藤銀河さん
第8回 瀬戸マサキ
第9回 水上文さん
第10回 小沼理さん
第11回 近藤銀河さん
まず最初に、銀河さん、博論本当にお疲れ様!!!!!
銀河さんの研究について、記事だったりあるいは出版の際にはその全貌をいつか読めるの楽しみにしてます。まずはゆっくり休んでね。
で、前回話した私は何をしている時が一番楽しいのかってこと、考えてみました。私はねえ、多分文章をこねくり回してる時が楽しい。「同じことを言うのには何百通りもの言い方があるけど、その中で自分はこう書く」というのを選ぶ作業が好きなんだと思う。
読んでいる人がどんな情報を得るかではなく、読んでいる人がまさに読んでいるその瞬間にどんな気持ちになるかを考え(そんな予想はしばしば失敗するものだし、だからこそ面白いのだけど)文章をあーでもないこーでもないと書き直して行くのが楽しい。それは多分、聴いてる人の気分をどこでブチ上げるかを考えながら作る音楽みたいな感じだと思う。
音楽の場合、「これはこういう曲でね」と解説されても(そしてそれがどんなに詳細かつ的確な解説だとしても)その曲を聴いたことにはならないよね。音楽が実際に立ち上がり、目の前に現れるのは、その曲を聴いているその時間だけ。でも文章って、なぜか「この論考のポイントはここです」とか「あの本のメインの主張はこうです」とかって解説を読むことが、あたかもその文章を読んだのと同じだけの理解ができたことのように思われがちだよなあ、って。
もちろんそういうふうに効率よく情報を仕入れることが必要だったり大事な局面はあると思うけど(それにそういう仕入れ方を想定して書かれた文章もたくさん世の中にあるけど)、私は自分の文章をできるだけ音楽を聴くように読んでほしいなと思い始めてるのです。ここ数年ずっと「ハードコアな論考を書くのをやめて、自分という個を中心に据えたエッセイを書く」というのを試みてきたけれど、これでようやく一つ自分の軸ができたなという感じ。音楽を作るように文章を書く。
あともう一つは、フィクションとノンフィクションの間を進んでみたいな、と思い始めてます。マジックリアリズムとまでは行かないけど、一瞬ファンタジーみたいになるエッセイ、というのに興味がある。今読んでいる柴田元幸さんの『ケンブリッジ・サーカス』というエッセイ集がそれを絶妙にこなしていてすごいなと思ってます。

ALT: 左手が持っている、柴田元幸著『ケンブリッジ・サーカス』の新潮文庫本の表紙。表紙には、日本語で「ケンブリッジ・サーカス」と著者名、英語で「Cambridge Circus Motoyuki Shibata」のタイトル、そして青空を飛ぶカモメの画像が描かれている。本の背後に浮かぶ白いテキストボックスには、日本語で「この本おもしろすぎる」と書かれている。背景には、木目調のデスクの上にキーボード、ワイヤレスイヤホン、眼鏡、青いセーターを着たテディベアのぬいぐるみ、そしてブラウザ画面が表示されたPCモニターが見える。
書きたい書き方が見つかりつつあるこの良いタイミングで、実はめでたいことに来年エッセイ本を出せることになりました。社会運動史と私の個人史を行ったり来たりしながら、生活と地続きの社会を考える、みたいな内容になる予定です。
初めての本だよ。ZINEすら作ったことないから、物理的に人に渡せる「私が書いたもの」第一弾。あ、その前にZINEを1つは出そうとしてるので、本は第二弾になっちゃうかも。なんなら同時進行でもう1冊本を書けたらいいなと思ってるので(編集者さんでご興味ある方いたらお声かけください…!)もしかしたら第三弾かな。いやでも、いずれにせよ嬉しいなあ。
無事本が出たらみんなぜひ刊行イベント一緒にやってね。
小沼さんが「書きながら変わっていく、変わっていくことを書いていく」って言ってたけど、本当そうだなあと過去の自分の文章を振り返って思います。昔の自分はとにかく情報を、論理を相手に届ける、ということに固執しすぎていたなあ。前回も引用したけど、水上さんの
言葉を研ぎ澄ませることは本当に重要なんだろうか? 研ぎ澄ませて、細やかな違いや共通点も含めて書き記し意思疎通を図ることは、本当に何かの役に立ってるんだろうか?
ってやつ、昔の自分が読んだら「でも研ぎ澄ませなかったら全てを伝えることはできないじゃん」と、とんちんかんな感想を抱いたかもしれない。論理や情報の伝達なんて、言葉を使った文化のほんの一部でしかないのにね。
そういえば飲食店、順調です! 飲食業界は最初の4ヶ月くらいで一気に売上が下がるのが普通で、その後6ヶ月目あたりまでにどのくらい回復できるかが肝(きも)、と言われているんだけど、見事に4〜5ヶ月目で谷底を迎え、6〜7ヶ月目で回復できました。
今後どうなるかはわからないけど、リピーターも増えてるし、お店のスタッフのサービスや料理のレベルもどんどん上がってる。まだ今はスタッフの給料を支払うので精一杯で自分の収入源としては不安定だけど、このままいい流れに乗れたらいいなという感じです。
約半年、営業日は毎日私も出勤してホール作業をしてたんだけど、もう今は1週間に1回様子を見に行くくらいで大丈夫になったので、少しずつイベントに顔を出したりできるようになってきました。
こないだは知り合いが週に1回くらい出てるスナック LIFE IS ROSE に行ってきたよ(しょうこさんって人がジェンダー関連のイベントやったりしてて面白い場所です)。そのほかにも以前友人の誕生日パーティで(1回)会った(だけの!)友人から誘われてBBQパーティーに行って飲み倒したり。一年以上行けてなかった大好きな二丁目のバーにも顔を出せた。
そしてプライドは結局行けなかったのだけれど(というか、色々と天秤にかけた結果行かないことにしたのだけれど)クィア関連のイベントにももう少し積極的に顔を出したいなと思ってます。それに、デモにも全然行けてないなあ。そういう「現場」に行くことが全てではないというのはわかっていても、どうしても罪悪感を持ってしまうんですよね。他人には「あなたのいるところが『現場』だよ」って言えるけど、自分はもっと行くべきなんじゃないか、頭数(あたまかず)になるべきなんじゃないか、って思ってしまう。
だから、というわけじゃないけれど、今度9月5日には小沼さんもインスタでシェアしてた関東大震災103周年 韓国・朝鮮人犠牲者 追悼式に顔を出そうと思ってます。
あと、そうだそうだ、時間に余裕ができたことで実現したことがもう一つ。きのコさんとやってる Queers with Accents という英語ポッドキャストに、こないだレロさん(中村香住さん)をゲストにお迎えして収録してきました。第一弾は『ロマンティックってなんだろう?』、第二弾は『クィアとニューロダイバーシティー』、そして最後の第三弾は『クィアとメンタルヘルス』。精度は完璧じゃないけど文字起こしも見れるはずなので、よかったらみんな見てみてください。
水上さんも小沼さんも英語の勉強頑張ってるって書いてたから、いつかゲストで参加してくれたら嬉しいなーと思っております〜。というのも、先日森野咲(もりの・さき)さんがnoteで
パリにいると、労働組合、障がい者運動、フェミニズム(特に反性売買運動)、トロツキスト組織まで、さまざまな団体が韓国からやって来ている場面に出会う。運動の活発さや国際感覚という点では、日韓の差はかなり大きいように感じる
って書いてたのね。もちろん日本の LGBTQ+ 関連の団体で国際的に連帯しているところはいくつもあるんだけど、今回レロさんと3人で収録してて「最初は楽しいね〜みたいなノリでやり始めたけど、こうやって日本から海外に向けて日本のクィアの声を直接発信するのは意外と意義のあることなのかも」って思ったんですよね。
今は YouTube も自動吹き替え機能が付いたり、note も自動で英語に翻訳される機能がついて、日本語で発信してても海外の人の目に触れることは以前よりうんと簡単になってきてはいるけど、やっぱり自分の声で、自分の息づかいで語るからこそ伝わるものもたくさんあると思う。
水上さんがロシア人のお友だちと話す中でした「言える言葉はありませんでした」という経験も、そこで起きた言い淀みや、沈黙の時間、あるいはノンバーバルな表情や体の動きなども含めてのものだと思います。文字だけを翻訳しても、それはコミュニケーションのほんの一部しか補ってはくれないんだよね。
お母さんとのやりとりも、そうだと思う(勝手な想像でごめん!)。「もしかしてあなたたちは対等なのかなと思って」という部分とか、文字だけ見て「男女だったら対等じゃないってことかよー」とか「どれだけ私たちの語彙が異性愛主義にまみれているかが現れている」とか言うことはできるけど、でもその発言はお母さんと長年やりとりを重ねてきたその道のりの文脈の中で水上さんにとって独自の意味を持ってるんだろうなって。
小沼さんが自分の本が「予想外」の読まれ方をしていたって書いてたけど、きっと読者も私たちの書く言葉を自分のそれぞれの文脈に引き寄せて受け止めてるんだろうなあ。その中には「勝手に救われ」てくれる人もいるかもしれない。振り返れば私自身もこれまでの人生何度も「勝手に救われ」てきたなあ。それはそうと、『悲しい話は今はおしまい』、ゆっくり噛み締めるように読んでます。書いてくれてありがとう!
書いてくれてと言えば、銀河さんの「単なる Disability (障害)にだけ自分の障害を還元したくない」という言葉。あまりに医療モデルが世に蔓延ってるからつい私も社会モデルをベースに(たとえばお店のお客さんとの雑談とかでもそうだし、SNSとかでも)語ってしまいがちなんだけど、社会モデルが impairment をブラックボックスに入れてしまっているということはもっとしっかり考えないといけないことだなと強く思いました。
最後に、個人的に最近あった最も大きな出来事について書きます。
友だちの小山エミさんが亡くなっちゃったの。多分みんなも訃報を目にしたと思います。エミさんが体調を崩した時にすぐにパスポート取ったんだけどさ、間に合わなかった。何度か電話で話ができたのはよかったんだけど、一度でいいから再会したかったなあ。こないだ行ったバーのママが亡くなった友人の話をちょこっとしてさ。エミさんのこと考えちゃって泣いちゃった。
私たちは本当に、間に合わな続けてるね。社会を良くしたいって思ってるけど、こうして大事な人がいなくなってしまうと、また間に合わなかったんだって苦しくなる。私が、みんなが、そして他の大事な人たちが生きてるうちに、少しでもマシな社会が見えてたらいいなあ、って少し焦ってしまう。
銀河さんが言うように政治情勢や社会・文化の状況、そして言説が目まぐるしく変わっていくから、それに追いつけない、追いつかない。走れる元気がある人と、ない人、ある時と、ない時、いろいろあって、社会運動もエネルギーが出せる人ばかりが中心になってしまう。
間に合いたいという焦る気持ちが膨らむと、そういう社会運動内部の能力主義をつい受け入れてしまったり、加担してしまったりもする。「余力のある人が率先してやろう」というのは表面的には正しい気がしちゃうんだけど、でもそれだと、ずっと中心に「余力のある人」ばかりが居座り続けることになるよね。
でも「間に合いたい」を手放してしまったら、間に合わなくて苦しむのはマイノリティの中でも特に比較的「余力」のない人たちでもあるんですよね……。
「間に合いたい」と「焦らない」をどちらも手放さずに、どうやってやっていくか。うー、考えても結論が出ない。でもずっと考え続けなきゃならないし、実践に移していかなきゃならないなあ。
この回で交換日記は一旦終了だね。
二巡したら終わりにしようって話してたけど、結局三巡したいねってなって、一年も続けることができて、楽しかったですー!
また何か一緒に企画やりましょう。まずは4人で集まって食事でもしたいね。
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