緑色の会話
最近、全くの他人と会話しましたか?
出不精なのもあって、私は放っておくと最低限の身の回りにいる人たちとしか会話しない日々が続いてしまいます。同棲している彼氏と、仕事の関係で週に一回は会っている母親と姉、そしてオンライン英会話を教えている生徒たち。かれらとだけ話す日々は、それはそれで楽しいものです。
ですが最近、全くの他人と会話するという出来事が連続して発生して、あぁ、そうだった、私は他者と共にこの世界に生きているのだった、と再認識しました。
一度目は、メガネ屋さんで。
棚から手に取ったカラーレンズメガネのサンプルを、持ち込んだ私物のメガネに重ねている時だった。七〇代だろうかという女性がすぐ近くにいて、クスっと笑いながら「何しているの?」と私に聞いた。
「この色のレンズに交換したらどんな見た目になるのかなと思って、当ててみてるんですよ」
「あら、そう。でもさ、メガネって高いわよね」
「確かに。でも昔に比べたらだいぶ安くなりましたよ。僕が子供の頃は安くても五万円はしてたけど、今は一万円くらいですから」
女性は苦笑いしながら「一万円」と言い、「でもレンズだって高いし」と続けた。
「いや、フレームに付いてる値札の金額にレンズ代も含まれてると思いますよ。ですよね?」
ちょうど店員さんが私たちの近くに来て様子を伺っていたので、聞いてみた。
「そうですね、全てレンズ代込みのお値段となっております」
「そうなの。へえ、ありがとうねえ」
「いえ、また何かありましたらお声がけください」と店員が下がって行った。何となくそこで会話が終わった感じがしたので、私も棚の方に向き直り、ミディアムグリーンとブルーの比較検討を再開した。
五分くらいだろうか、私がミディアムグリーンに心を決めた時、またあの女性の声がした。
「また今度にするわ、じゃあね」
「あ、そうなんですね、失礼します〜」
それだけのことである。それだけの出来事で、なんだか私はその日一日、いや正直言うと一週間以上経った今日でさえ、ミディアムグリーンのメガネをかけてこの文章を書きながら、とても気分が良いのだ。
二度目は、彼氏の付き添いで行った病院だった。
診察までの待ち時間が長かったので、病院を出てタバコを吸い、院内に戻った時のこと。またしても七十代くらいの女性が「あら、これどうするのかしら」と、誰も同伴者がいないのに声に出して戸惑っている。その病院は会計カウンターでQRコード付きの紙片を受け取り、精算機にそれを読み込ませると支払いができる、というシステムだった。
私は精算機に近づき、画面上の「清算開始」というボタンを指差して「これ、まずここ押すんですよ」と言った。
「あぁあぁ、これね」と恥ずかしそうに笑って、「どうも〜」と女性が言ったので、私も「いいえ〜」と言って、彼氏のところへ戻った。
それだけのことである。
あのね。本当に、それだけのことなの。でもさ、すっごい良いなって思ったの。人と人って感じするな、って。
そう思えたら今度は、街に出るたび、視界に入る人全員が「今から会話するかもしれない相手」に見えてくる。でも、本来人間ってそういう生き物だったんじゃない? とも、少し思う。しかも縄文時代とかの大昔じゃなくて、七十代の人が若かった頃までは、っていうレベルで。
そういや、私の母が二十年くらい前に当時付き合っていた男性と街を歩いていたら、やはり高齢の女性から話しかけられたらしい。いや、正確に言えば、一緒にいた男性が話しかけられたんだそうだ。
「あなた、本当にラッキーね、こんな素敵な女性と街を歩けるなんて」そう言って母の方を向くと、女性はさらに「あなた本当に素敵ね。綺麗だわ」と真剣な眼差しで言った。二人は面食らったが、「僕も本当にそう思いますよ」「そんな、ありがとうございます」と応え、三人とも笑顔で解散したらしい。
もちろん、他人から話しかけられることが苦手だ、という人がいるのも分かっている。母と彼氏だって、もしかしたらパートナー関係にない可能性だってあったわけだし、その女性の言葉に困ってしまったり、傷つけられる可能性だってあった。でも、そもそも傷つけるかもしれないような、困らせるかもしれないような言葉は、身内にだって言わない方がいいのだ。
その上で、言う内容はさておき、女性の言葉の根底にある「伝えたいことは他者にも伝えよう」というパッションのようなものに、私は強く惹かれる。もっとみんな、他人同士たくさん話そうよ、って思う。
月曜に受け取ったミディアムグリーンのメガネ、私はとても気に入っている。その理由の一つは、私に話しかけたあの女性の思い出があるからだろう。
彼女は後日メガネを買いに戻っただろうか。あるいは、あの日はふらっと立ち寄っただけで、別にメガネが欲しかったわけではないのかもしれない。私に話しかけ、ちょこっとだけ会話をして、それであの日の彼女は満足だったのかもしれない。
それならばそれで、とても良いことだ。
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